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受け入れていくこと

受け入れられていないと書いたその翌々日。
私は渋谷であるライブを見ました。

それはHEAT WAVEというロックバンド。
HEAT WAVEは震災後から南相馬市を支援してきています。
そのプロジェクト「MY LIFE IS MY MESSAGE」の活動としてのライブでした。
http://mylifeismymessage.info/

HEAT WAVEは阪神大震災の時に「満月の夕」という曲を作っています。
私は陸前高田で一人この曲を口ずさんでいました。

また、この日のライブには沖縄を代表する歌い手古謝美佐子さんがゲスト出演されました。
「童神」という曲を作った人です。

この二組のセッションは、私を子供時代に戻し、陸前高田で見た風景に戻してくれました。
私は震災後、初めて自分のために泣きました。

それまではこの途方もなく大きな災害やあまりにも多くの悲しみに対して泣いていました。
ですが今日、その追体験と涙が、不思議と私の中で前に進む力に変わりました。


震災後の体験や陸前高田での体験は、それまで私だけのものであって、他の誰かと共有できるものではありませんでした。
大きな愛を持って私に接してくれるナオですら、それはできませんでした。

自分一人で抱えきれなかった今までの思いが、音楽の力を借りて形になり、私を癒してくれました。
素晴らしい体験でした。
少しずつ、受け入れていきたいと思います。


少し、心が軽くなったようです。
そして一歩前に進むのなら、私は改めて自分にできることを探したい。

あとMESSAGEと書くべき所をMASSAGEと書いていることが判明してとても恥ずかしい思いをしています。
まずそういう恥ずかしいミスを減らしていきたいと思います。
素の自分ってこんなもんです。

とても個人的な記事になってしまいましたが、読んでくださりありがとうございます。

少し早いですが。

少し早いですが、明日は仕事なので今日書いてしまうことにしました。

東日本大震災から、一年。
各テレビ局が何時間にもわたる特集をするようですが、仕事なので見られません。
いえ、正確に言えば見たくありません。

あの日、テレビから流れる映像を見て泣き、
その後も報道を見ては泣き、
そして、現地で泣き、

帰ってきてからもこのブログを書きながら泣き、
読み返しても泣き、
そしてまた報道を見ては泣き、

そんなことを繰り返しているうちに、私は震災関係のテレビ番組を避けるようになっていました。

何一つ片付かない自分の気持ちを、一年間、置き去りにしてきてしまいました。


東京で、そして陸前高田で、私は、逃げ出したかった。
何度も何度もそう思った。

地震から、津波から、放射能から、エゴから、恐怖から、喪失から、
そういうものから逃げ出したかった。


医療者がこんなこと書いていいのかと叱られるかもしれませんが、
何かを乗り越えるために言語化することは私にとって大事なことです。

陸前高田で、そして日本中で、たくさん傷ついている人たちへ、
一年たった日だからといってあえて立ち向かわなくてもいいよ、と言いたいです。

毎日毎日やってくる悲しみに、疲れてしまっている人もいるかもしれません。
まだ暗闇で手探り状態の人もいるかもしれません。

喪失の悲嘆を癒すには、もっともっとたくさんの時間が必要です。
一年で何も癒されてないなんて当たり前のことです。

看護師でありながら、現地に行っておきながら、ブログで偉そうなことを書いておきながら、
結局直視できず、受け入れられていない私のような人間もいます。


こんなに悲しいのは、忘れてないからです。
こんなに悲しいのは、大切だからです。

だから、一年の日に報道を見るのが辛いなら見なくていいんです。
その他の媒体も、辛いならシャットダウンしてもいいんです。
当日に、または14:46にブログを上げなくたっていいんです。

忘れていないから。大切だから。



いつか、ずっと先になるかもしれませんが、
ゆっくり、癒していきましょう。

信頼できる人に自分の気持ちを話してみましょう。
専門家の手を借りることも考えてみてください。

ゆっくり、癒していきましょう。

震災一年を前に。
くらげ

もう。まだ。

震災から4ヶ月が過ぎました。

陸前高田市はどうなっているでしょうか。
こころのケアチームは無事に地元医療機関にケースを引き継げたでしょうか。

震災直後にはまだ雪の降っていた街にももう夏が来ていることと思います。

私は、陸前高田のことを忘れずに、毎日を頑張っています。

災害派遣活動報告 ~番外編~

本編がこの下から始まっています。
そちらを先にお読みいただけると良いと思います。



読んで下さった方から、希望の持てることも書いてほしいとのご意見をいただきました。
私も書き残しを感じていたので、書くことにします。


希望といえば「復興」じゃないでしょうか。

当時、上下水道は寸断。
手を洗うのもポリタンクに入った水で。
お手洗いを流すのもごく僅かな水で。
ほとんどくみ取りのようなお手洗いでした。
電気はついてました。
でもそれが発電所からの送電だったのか発電機からだったのかはわかりません。
いずれにしても節電されていました。
ガスはわからないです。

ともかくライフラインが復旧しないことには不便な生活が続くと思います。

でもお手洗いに対する抵抗はすぐなくなりました。
いつ行っても、必ず誰かが掃除をしていたからです。
ただ、やはりご高齢の方や子供はその段差と和式が大変そうでした。
仮設住宅などで洋式に座れるようになると楽になるのでしょう。


子供といえば、子供の姿がよく目につきました。
本編でもお話ししたように、チームとして震災孤児に関わることもありました。

今回は番外編なので、見かけた子供達の様子を書きます。
一番初めに目についたのは、避難所で自衛隊員さんに元気に挨拶をする子供の姿でした。
子供達は感受性豊かです。
何が起こっているのか、きちんと理解できていなくても感じ取ることが出来ます。
そんな子供達が自衛隊員さんに挨拶していることが嬉しく感じました。
自衛隊員さんが自分たちのために何をしてくれているのかを感じ取っているのだと思ったからです。
良い子に育てよ。

ある日避難所で、太鼓の音が聞こえてきました。
陸前高田では七夕に太鼓を叩くそうなんですね。その練習でした。
練習を知らせる放送がかかると、子供達は走って向かっていっていました。
元気な太鼓の音が夕方まで聞こえていました。
帰ってきてから報道で見たのですが、復興イベントにも太鼓が披露されたようですね。
胸を熱くするような太鼓の音で、復興をもり立ててほしいと思います。


ベースである高田第一中学校のそばに、コンビニエンスストアができました。
温かいものも出せるようになっていて、野菜なんかも置いてあったりしました。

お金を持ち出せた人とそうでない人との差がここで問題となってくるわけですが…。
そのあたりは今後の政策に期待するしかありません。
誰がやろうがいつ辞めようがどうでもいいですが、被災された方が一人でも多く安心して暮らせるような対策をさっさとしてほしいものです。
私たちはもっと政治に興味を持つ必要がありますね。本質的な意味で。

話が脱線してしまいました。

最後に、なぜ私が派遣されるに至ったかもお話ししようと思います。
初めは本当になぜ私が選ばれたのかわかりませんでした。
でもボスと話す機会があり、こんなことを言われました。
『ある程度受け流せて、忘れられる人でないと辛くなる。
君は大丈夫だろう。そういう心の健全さを持ってるから。根性もあるし。』
ということでした。

たぶんボスの言葉から察するに、我々の精神衛生ありきであるってことが一番大事なんだろうと思います。
まぁ当たり前といえば当たり前で、医療者が被災地に行って倒れたり凹んだりしてる場合じゃないですから。
自分が健康でないと人の健康に関わるのは困難です。

逆にいえば、そこは自分でケアするように。ということでもあったのでしょう。


心の健全さを保つという意味において、私を強く助けてくれた言葉を紹介して番外編を終わろうと思います。
春日武彦先生という精神科医の書いた新聞記事です。


「この鬱々と重苦しい毎日を、いきなり晴れ渡った気分で満たす方策はない。だが、うな垂れる必要もない。被災地から隔たった場所に住む人間は、誠実さや活力が他人へ伝搬し得るという事実を思い出そう。
 
 他人を思いやることと、過剰な自主規制や自粛とは直結しない。被害を受けずに済んだ者が何かを楽しんでも、それが「不謹慎」ということになってしまえば心は萎縮しかねない。他人の顔色を窺うような態度は、誰も救えない。

被災者の存在を胸の内に置きつつ、背筋を伸ばして日常を営んでいくことが大切だろう。」

災害派遣活動報告 ~-1~

2011年3月11日、14時46分。
東日本大震災発生。

その時、私はいつものように仕事をしていた。
あまりの揺れに外に出て、そのまま病院やその関連施設で安否確認に走った。
その日は強い余震が何度もあり、気持ちも落ち着かず仕事どころじゃなくなった。

その日を境に、いつもの毎日は姿を変えた。

多くの見知らぬ人の無事を祈った。
小さな余震や流れ続ける映像に心が折れそうになり眠れない夜が過ぎた。

製造・物流の被害による日用品の品薄と買い占め。
東京電力福島第一原発の事故による計画停電。
本当に、毎日は変わってしまった。


私も、きっと多くに人がそうしたように、自分に出来ることを考えた。

見知らぬ誰かの無事を祈ること。
生きていることを悔やまないこと。
大切な人の無事を感謝すること。
生き残った幸運を噛み締めること。
不謹慎という言葉に萎縮しないこと。
自分の命も誰かの命も諦めないこと。


大丈夫。大丈夫。何度も自分に言い聞かせて毎日を過ごした。

災害派遣活動報告 ~0~

3月23日。
上司から電話。
こころのケアチームとして陸前高田に行ってもらうかもしれない、と。
何度も報道で見た場所。

ホームページを見てみた。
三陸海岸に抱かれた美しい街だった。

見知らぬ街が、一気に身近なものとなった。

そして同時に、何をすべきか、何が出来るのかを、
今まで以上にもっともっと考えるようになった。


でもそんなもの簡単には見つからなかった。

迷惑をかけるだけになるんじゃないか。
何もできないんじゃないか。
自分の心が折れてしまうんじゃないか。
本当に行きたいんだろうか。

迷いを振り切るには時間が必要だった。


友人や同僚と食事をしたり、親と話したりするなかで自分を見直していった。
ナオとは一度派手に衝突した。
でもそうすることでお互いの本心がようやく出せた。

関わりのある色んな人が声をかけてくれた。
友人、同僚、ナオの友達からも。

「つながってる」
「ひとりじゃない」
誰かに言われてもピンと来なかった言葉が、実感を伴って沸いてくる。


その最中にも、テレビはずっと惨状を伝え続ける。



私は、結論を出した。

頑張ってなんて、大丈夫なんて、絶対言えない。
気持ちはわからないと思う。
わからなくてごめんなさい。
でも生きてほしい。
そのために少しでも力になりたい。
何か一つでもお手伝いがしたい。

そのために、行く。

災害派遣活動報告 ~1~

いよいよ当日。

8時間かけて陸路を行く。
一関に前乗りして宿泊。

正直、一関の幹線道路周辺しか見ていないけど、地震そのものの大きな傷跡は見ることがなかった。
(後日、見ましたが)


宿では一睡も出来なかった。
不安と緊張で眠れないなんて初めてか、覚えてないくらい久し振りのことだ。


翌日から陸前高田に向かう。
一関から一時間半。
山をいくつか越えた瞬間、それは来た。

いきなりのガレキ。
初めはなにか解らなかった。
そこはまだ海から5㎞も離れていたから。

でもすぐに土砂や建材、そういうものがガレキだと悟らせた。
ここまで津波が来たのか…その理由も解った。
すぐ横を併走している川を遡っていたのだ。

鉄道の橋げたが川の流れと反対方向に90度曲がって切れていた。
ガレキの真ん中でトラックが逆立ちになっていた。
鉄骨も、ガードレールも、海に背を向ける方向に曲がっていた。

車内の全員が絶句する。

いよいよ来たんだ、という思い。
これから何を見るんだろう、という思い。
不安の方が勝っていたんじゃないだろうか。


拠点となるのは、陸前高田市立第一中学校。
報道でも何度も見た場所だ。

ここは高台にあって、津波も近くまでは来ていたようだったけど建物は無事。
体育館に当時で700人くらいの避難者がいたらしい。
2階建ての校舎は、色んな教室に色んな役割が与えられていた。
日赤医療班の詰め所や、子供を遊ばせられる部屋、調理のための部屋、など。

私たちは全国から10チームほどが集まる部屋を拠点にする。
覚えてるだけでも北海道、秋田、岐阜、三重、兵庫…
みんなの思いは同じ。
直接的な連携は少なかったけど、医療者としての見えない連帯感を感じた。

『こころのケアチーム』だけでも10名越えの大所帯。
仕事としては、地域に点在する避難所を回って精神科外来の周知や状況把握。
実際に相談に来た方への対応。
外来診察。

私は初日の午前中は避難所回りへ。

中学校は拠点にはなっているのだけど、地域の公民館などに数名単位の避難者がたくさんいらっしゃるのだ。
集落ごと、なのだろう。

『精神科』の言葉を出さない。
専門用語や横文字は使わない。
色々勉強して向かったはずだったのだけど、どうだったのか…。

避難所の人たちの顔は疲れていて、悲しんでいて、
何か言葉も上滑りしていってしまうようだった。

本当は一人一人と話をして行きたかったが、そのあたりは保健師さんの役割になっているようだった。

陸前高田を走っているとき、ガレキの高さで津波がどこまで来たのかが解った。
陸前高田は高低差の多い変化に富んだ地形だ。
ほんの僅かな高低差だけで津波被害に大きな差があった。
生存率も紙一重だったのかもしれない。


この日、私は同席できなかったのだけど震災孤児になってしまった子の診察があった。

心が重い。
言葉がない。

この思いは、滞在中なくなることはなかった。

災害派遣活動報告 ~2~

2日目。

この日は巡回の時に海側を通った。
海側は…全部ガレキだった。
壊滅状態という報道が過言ではなかったことを知る。

テレビで見た画面がそこにあって
それが360°

画面には映りきらない。
もちろんその先に画面に映りきらない悲しみがある。

海側のガレキは、川に流れてきたガレキとは違う。
上手く言えないけど何かが違う。


ガレキの撤去と遺体の捜索が行われている。

涙が溢れた。


こんな大きな震災で、たくさんの人の悲しみは計り知れない。
悲しみが癒える日が一日も早く来てほしい。



阪神大震災のとき、初めてPTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉を聞いた。
今では馴染みも深くなってきた言葉ではあるけど、私がこれを読んでくれる人に伝えたいことはそのもう一段階前にある。

それは急性ストレス障害(Acute Stress Disorder、ASD)だ。

これは、生死に関わるような要因のストレスがかかったときに起こるフラッシュバックや不眠といった症状のこと。

大事なことは「誰にでも起こる」けど「ケアが必要」ということだ。
適切なケアがされれば4週間程度で軽快に向かうが、場合によってはPTSDに移行することがあるため注意が必要。



前回、「精神科」という言葉を出さないことや横文字・専門用語を使わないことを念頭に置いて巡回した、と書いたのだけど、
じゃあ、こういう急性ストレス障害のことをきちんと伝える機会が必要になってくるのではないか。
純粋に知識として知っておくだけで、どれだけ助けになることだろう。

土地柄なのか、ご高齢の方が多いからなのか、精神科はいまだ偏見の中だ。
でも辛いときにはきっと助けになれると思う。

偏見があるのは啓蒙不足だからだ。


精神科っていうのは、怒りや悲しみという当たり前の感情に寄り添うことにもその役割がある。
今回のようなとき、それはもう公衆衛生のような分野になるはず。


現地に限らず、全国で、もっと自分の身近で、心を痛めていた人はたくさんいた。
そういう人に優しい一声をかけることも立派なメンタルケアだと思う。


目の前にいる人に優しくしてください。
その人は見えない悲しみを抱いているかもしれない。
それに何より、明日もその人の笑顔が見られるとは限らないのだから。

災害派遣活動報告 ~3~

この日、私は一件の相談に同席した。
30代女性。身内を亡くした悲しみで不眠や嘔吐、食欲不振が出現していた。


一緒に逃げたんです。
でも途中で車を降りちゃったんです。
足の悪い別の親戚の所にいくって。

その親戚ともども、津波にのまれました。

どうして車を下ろしちゃったんだろう。
私のことを責めているだろうか。

今でも、夢なんじゃないかと思う。
自分の子供に励まされる時もある。
この子のために頑張ろう、と思うときもあるけど
でもふとしたときに思い出してしまうんです。



私は何も言えなかった。
正論も、励ましも、気休めすら。

ただ出来たことと言えば、一緒に涙を流したことだけ。

それは美談などでは決してない。
私はとてつもない無力感に支配されていた。

ここへ来る前に「わからなくてごめんなさい」と心で唱えた。
でもそんな思いを遙かに越えてきた。

もし自分だったら。
そういうことを考え出したら、胸が潰れてしまいそうだった。

でも自分だったらと思うことすらおこがましい。
それはあまりに安易な共感に過ぎないから。



話すだけで楽になるかもしれない。
私が最後につないだ望みはそこだけだった。

でもその人は、結局最後までスッキリすることはなかったようだった。

それはそうだろう。
何も、何一つ、解決はしないのだから。


生き残った人間が頑張らないといけないとわかっていても
辛くて、悲しくて、頑張れないのだと思う。

こういう時に、援助に来た自分たちが、かわりに頑張る。

頑張れたかな…。

災害派遣活動報告 ~4~

これが最後です。

正直、自分が五感で感じたものを文章にしきれていないもどかしさがあります。
ここからは、感じたことを素直になるべく素直に、たくさん書いていこうと思います。


当時、震災から1ヶ月。
心理学的には幻滅期。
現実が見えてきて、怒りや絶望が沸いてくる時期。
そして、そんな感情の渦に疲れ切った人たちの顔。

海側はまさに壊滅状態。
建物があった形跡、鉄筋や土台だけがかろうじて残っている。
未だ捜索やガレキの撤去が続く。それを見守る人。

土砂や建材が何キロも先まで流れ着いている。
津波がどこまで来たのかがわかる。

テレビに映りきらないたくさんの悲しみが見える。
それはガレキの一つ一つに宿っている。

巡回中、卒業証書を入れるような筒が道に落ちていた。
その時はそれを誰にも言えずにいた。
翌日の巡回の時に運転手さんや同行の医師にお願いしてその場所まで連れて行ってもらった。
中身は入っていなかった。筒にも学校名も何も書いてなかった。
あの筒にも、悲しみが宿ってた。
持ち主の元に帰ってるといいな…。

あの景色を、あの悲しみの一つ一つを、私は忘れることはないだろう。



メンタルケアの必要性を感じる場面はたくさんあった。
もっと精神科を、そのケアを知ってほしい。
欲を言えばその必要性ももっと知ってほしい。
きっと力になれる。

実際にケアできたかといわれれば、色んな大人の事情で出来ないこともあった。
実際に何が出来たのか、いつまでも葛藤が消えることもない。

「大丈夫」なんて言えない。
「頑張って」なんて言えない。
気持ちをわかれなくてごめんなさい。


でも私はあの人のことを絶対に忘れない。
今もきっと悲しんでる。
でも、私が忘れない限り一人じゃない。

力になれるって言いながら私には何も出来ないけど、忘れないでいる。
それだけで少し心が楽になれるでしょうか。
少しだけでも、お手伝いが出来たでしょうか。



さて…。
私が今回、なぜ報告を書こうと思ったのかここまで読んでくださってわかったと思います。
一つは、震災のことを忘れないでいてほしいということ。
テレビでは伝わらない状況が少しでも伝われば幸いです。
正直、それによって辛い思いをする人もいたかもしれません。
そういう人は半分くらい読んでください。
でも、やっぱりそれも忘れないでください。
「忘れないでいる」という支援の力を、私は信じています。


もう一つは、精神科のケアとその必要性を知ってほしいということです。
これは震災に限ったことではありません。
いつも会う人に、心が許す限りまたはちょっとだけ努力して、優しくしてあげてください。
それも立派なケアですから。



いよいよ終わりに近づいてきました。
これを書くのに1ヶ月かかりました。
書きながら何度も何度も追体験がやってきて、涙が出たり夢に出たりしました。正直辛かったです。
先に書いた理由もありましたが、それは使命感と言うほどでもありませんでした。
もっと良い文章をもっと前に書いた人がもっとたくさんいたはずですから。

これは、この派遣に際して私を支えてくれた人への感謝の形です。

いつもそばで支えてくれたナオ。
声をかけてくれた同僚。
色んなつながりの友人。

本当にありがとう。


これからも自分に出来る支援を続けます。
そして大切な人をもっと大切にします。

最後まで読んでいただいてありがとう。
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